多趣味な男の適当生活

飼い猫と運動をメインにしたブログです。・・とラーメン。

当初はバイク旅をメインにしたブログにする予定だったのですが、

最近では、日々のジョギング、自転車、更には釣り、各メンテナンスの記事も・・。ブログ内にラーメンが多発します。(飯テロ注意)

そして、猫もいます。


ちょっと多趣味な管理人です。

リア箱高速道路テスト走行とお守りを買いに高伝寺へ

今日は前回リア箱の一般道テストが無事に成功した事を受けて


高速道路での耐久テストをやってきました。


それから、ついでにバイク用のお守りを買いに行きました。


前回の一般道走行でリアシートに載せただけの箱が


シートが曲面になっている為に斜めになってしまう現象

15度位角度がついていると思います。


これを直す対策としてようしたのが・・・


こちらのすのこです。


リアシートの幅より大きいのが良かったのですが丁度良いのがなかったので


リアシートの上に2点支えの形で置くことにしました。


ただ、木の角がそのままシートに当たるのは良くないので


こんな感じに強化スポンジの様な物を付けて


より密着性と保護性を上げています。


この上に荷物を載せて(今日は買い物を頼まれたので中身はスカスカです。)


高速道路を一区間走り、途中のPAです。


全く問題なく走行できました。


今日は横風が強かったのですが、横風でもビクともせず、


走行風は自分の体で受け止める為か殆ど抵抗を受けてなかった様です。


結論:やっぱりキャリアはいらん。


この箱を付けて走っていると郵便局のバイク配達の人からガン見されていました。


年の瀬の時期のせいか、注目度抜群の様です。


というわけで目的地の高伝寺に到着しました。



このお寺は戦国大名、肥前の熊、竜造寺隆信と、はがくれの武士道の祖である鍋島直茂の菩提寺です。


竜造寺家を推している私はここに交通安全のお守りを買いに来ました。


こちらは梅の花の名所としても人気が高く、


開花時期には沢山の観光客が来るそうです。


今の時期はもちろん咲いていませんw


とりあえずご挨拶をと拝観料300円を納めて境内へ入ります。



門を恐る恐る通ると右手に池と茶室?が・・この池に大きな鯉がいそうですね・・。


2の門とでも言いましょうか、本社への門です。

こちらがお寺の本社です。
中はお参りももちろん出来ますし、時期により色々な展示物が催されています。


今は特に展示物がありませんでした。

高伝寺には日本で最大の大涅槃図があるらしいのですが
こちらは縮小版です。
本物は長さ15.2m 幅6mとかなり巨大だそうです。見たら気絶しそうですね・・


文珠菩薩(もんじゅぼさつ)像です。強そう。

この絵はなんでしょ・・

さらに建物の内部へ入ると慰霊碑がずらりと並んだ部屋に行きます。
(一瞬部屋に入っていいのか戸惑いました。)
こういうお部屋は直感的に近寄りがたいオーラを感じます


建物内部は見終わったので


供養塔の方へご挨拶に行きます。


この日は私以外誰も居なかったので寂しかったです。

この日は私以外誰も居なかったので少し怖かったです。

この日は私以外誰も居なかったので正直もう帰りたくなりました。


でもここまで来てご挨拶もせずに帰るのは打ち首ものなので


帰りません。


ここから順路通りでは有りませんがご紹介させて頂きます。


こちらは初代佐賀藩主 鍋島 勝茂公のお墓です。


関が原の戦いでは当時の大名 鍋島 直茂の代理として戦場に赴き


当初は間違って東軍の伏見城を攻撃してしまい


最悪所領没収の窮地に陥ったものの、すぐに東軍に寝返り、父の謝罪も有り難を逃れました。


また、藩主時代には島原の乱にも参戦し、加藤清正と共に戦いました。




こちらは竜造寺 高房 公のお墓です。


竜造寺隆信のあとを継いだ政家が病弱の為隠居し、


その後鍋島直茂と所領争いをした人物です。


争いと言ってもその当時の直茂の存在は絶対的な物だった上に


豊臣秀吉からの信頼も厚かったため、手も足も出ませんでした。


こちらは戦国3大Gの一人と言われる(自分が勝手に言ってるだけ)


竜造寺 家兼公のお墓です。


91歳を超えて戦場で無双をしていたという


まさにスーパー爺とも言える(三国志で言うと黄忠みたいな人)人物です。


3人のうち、あと2人は朝倉宗滴・長野業正だと勝手に思っています。


3人とも登場する時代が早いのでスポットが余り当たらないんですよね・・。(長野さんは割りと後まで)


こちらは竜造寺政家公のお墓です。


竜造寺隆信公が沖田畷で討ち取られた後に家督を継ぎましたが、


病弱の為、24歳の時に隠居となりました。

こちらは鍋島 直茂公のお墓です。


今山の戦いでの奇襲で大軍の大友軍を撃退、沖田畷では別軍で行動していた為


竜造寺隆信が討ち取られた後は分散した軍をまとめて帰り


島津家久が隆信の首を持って勧告をしにきた時には


「その様な縁起の悪い首はいらぬ、もって帰られよ」と言い放ち


直茂が居る限り肥前は落とせないと思わせたり、


豊臣秀吉が九州征伐をした際には


軍を借りて島津義久を撃退したり


朝鮮出兵の際には加藤清正と共に戦い、清正に賞賛されたり、


直江兼続、小早川隆景と鍋島直茂で比較をされたり、


徳川家康からも信頼が有った為所領を安堵をされ、


佐賀藩の基礎を作りました。葉隠れの武士道とは死ぬことと見つけたりは


余りに有名ですよね。


そして最後は5国2島の領主、肥前の熊、竜造寺隆信公のお墓です。


遺体のほうは沖田畷に、首塚は肥前と肥後の国境付近の何処かに有る筈です・・


幼少期から人質の身で育った為に非常に残虐な性格だったそうです。


肥前を統一するまではそこまで無かったと思うのですが


国を追い出された時に2度も世話になった蒲池鑑盛の後を継いだ 鎮漣を


宴会だと誘い出し殺し、さらに一族を子供に至るまで全て殺してしまい、


その事が有馬家の謀反に繋がり、沖田畷での戦死に至ります。


普通にやっていれば結構いい所までいったんじゃないかと思うのですが・・。


・・と年末のご挨拶を済ませましたので


お守りを買います。


こういう包みに入れてくれました。


そして中身がこちら、鍵に付ける事にしましたが、紐が長い・・。まあこのままでもいいか。


これで旧竜造寺家所領管内(肥前・筑前・筑後・肥後・豊前の一部)での交通安全は万全です。


それ以外は・・多分体力的に行かないでしょうw


このお守りを持って鬼島津の本拠地、薩摩へは近づけないですね・・


でもあえて攻め込みますか!if・・ということで(もし沖田畷で勝利していたら)


と言うわけで、バイクもこれで安心です。





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